JPXとは

History

JPXの歴史

1878〜

日本の近代化を担う

明治維新から間もない1878年(明治11年)、明治政府による新産業育成政策(殖産興業)に呼応するかたちで、渋沢栄一らが「東京株式取引所(東京証券取引所の前身)」を、五代友厚らが「大阪株式取引所(大阪証券取引所の前身)」を創設。2大都市で企業の資金調達支援を担う両取引所は、切磋琢磨しながら日本の直接金融を担い、その後の資本主義発展に貢献していくことになる。 また、各取引所は「実物取引を助成して無謀なる投機取引を抑制し、公定相場作成機関としての取引所の機能をして完うせしめん」という政府方針のもと、健全な市場を振興させる取組みを進めていった。

1945〜

日本経済の復興と自立のために

終戦を機に、東京証券取引所や大阪証券取引所は、日本経済の復興と自立を担う重要なインフラとして再スタートをきった。 また、1955年から日本経済は高度経済成長と呼ばれる飛躍的な拡大期を迎え、企業の旺盛な設備投資意欲に応えるべく、直接金融を担う証券取引所はその制度整備に取り組んだ。

1960〜

高度経済成長を支えるインフラとして

高度経済成長期には大衆投資がさらに活発化し、証券市場は飛躍的に発展。その活況の中で、粉飾決算や不適正取引が続発した。取引所では、上場基準の見直しや上場廃止基準の制定、売買審査業務の強化等を通じて、証券市場への信頼再構築に取り組んでいった。 その一方で、中堅企業の旺盛な資金需要に対応した第二部市場の開設、国債売買取引の開始、転換社債市場の開設など、市場の活性化を促す施策を数々推進。 また、東京証券取引所では、日本初となる商用コンピューターを導入し、事務作業能力を大幅に向上させ、高度成長期の我が国の成長を支えるとともに、1974年には時々刻々と変化する最新の市場情報を、全国各地に迅速かつ正確に伝達する「相場報道システム」を稼働させた。それまでの報道機関のニュース、あるいは、電話による問合せでの情報入手という方法から、飛躍的な進歩であった。日本が経済大国への道を歩んでいく中で、こうして証券市場も大きな進化を遂げていったのである。

1985〜

グローバル化への対応

1985年のプラザ合意以降、世界経済に占める日本の地位は飛躍的に高まった。日本は世界最大の債権国となり、日本の証券市場は時価総額や売買代金において世界最大の規模へ成長した。株価の動きを東証株価指数(TOPIX)でみると、1985年末の1,049ポイントから、1989年末には2,881ポイントまでほぼ一本調子で上昇し、4年間で2.7倍という驚異的な上昇を記録した。また、株式市場(東証第一部)の年間売買代金でみても、1985年には75兆円であったものが、1989年には4倍超の325兆円の規模になっている。新規上場会社数についても、1980年代前半のほぼ倍のペースで増加し、NTTのような超大型企業もこの時期に上場している。こうして、世界中の企業や投資家が日本に熱い眼差しを注ぎ、外国企業の上場も急速に増加したため、売買システムの拡充や国際化への対応が、今までにない量とスピードで求められたのである。 そして、もう一つのグローバル化対応が、金融派生商品(債券先物・同オプション・株価指数先物・同オプション)の登場である。1982年に米国ではじまり、世界中へまたたく間に波及したこのトレンドに対応すべく、日本でも積極的に金融派生商品市場の創設・整備を推進。まず、1985年に東京証券取引所で国債の先物取引が開始され、続いて、1988年に、東証株価指数(TOPIX)の先物取引が東京証券取引所で、日経平均株価(日経225)の先物取引が大阪証券取引所で、それぞれ開始された。取引開始後、市場は急速に成長し、1990年には、日経平均株価(日経225)の先物取引が、シカゴ・マーカンタイル取引所のS&P500先物取引を抜いて、取引代金ベースで世界最大となった。

1990〜

新たな成長へ、布石を打つ

1990 年代に入りバブル経済が崩壊すると、日本経済は深刻な長期低迷期を迎えた。産業構造の改革の必要性が叫ばれ、労働や資本などの経済資源が速やかに成長分野へ流れていくダイナミズムを創造することが日本経済の喫緊の課題となった。そうした社会的使命に応えるため、取引所もさまざまなイノベーションに取り組んだ。新しい企業の育成・発展を目的とした新興企業向け市場「マザーズ」や「ナスダック・ジャパン(現在はジャスダックに統合)」の創設、アジア太平洋地域の経済発展に寄与する外国会社を対象とした外国株市場の開設などである。こうした新しい発想で市場や商品の多様化に取り組んでいったのである。

2000〜

取引所、新時代へ

1990 わが国の金融業界では、1990年代の半ばから2000年初頭にかけて実施された日本版金融ビッグバンと呼ばれる金融システム改革により、フリー(市場原理が働く自由な市場)、フェア(透明で信頼できる市場)、グローバル(国際的で時代を先取りする市場)を原則とする自由競争が始まる。金融自由化の中で、ITの高度化に伴いインターネット取引やアルゴリズム取引の拡大など、新しい取引の流れが生まれた。こうした市場参加者の注文発注形態の変化に伴い、我々は次世代売買システム「arrowhead」(2010年1月稼働)、デリバティブシステム「J-GATE」(2011年4月稼働)の開発に取り組んでいったのである。

2013〜

日本取引所グループ、誕生

2013年1月1日、株式会社東京証券取引所グループと株式会社大阪証券取引所は経営統合し、株式会社日本取引所グループとして新たなスタートを切った。現物株式の取引で圧倒的シェアをもつ東証と、デリバティブ取引に強みをもつ大証が統合したことで、世界的な競争力を備えた新市場が誕生したのである。そのビジョンは、「アジア地域でもっとも選ばれる取引所」となること。世界の取引所は、いま歴史的な変革期を迎えている。魅力ある市場創造へ向けて、そして「アジアNO.1」の頂きへ。日本取引所グループは壮大な挑戦への確かな一歩を踏み出した。

2019〜

総合取引所の実現へ

2019年10月1日、株式会社日本取引所グループに東京商品取引所が加わり、総合取引所の実現へと舵を切った。これにより、金融からコモディティまで幅広い商品のワンストップでの取引を可能となり、日本のデリバティブ市場の更なる発展が期待される。